soomyaの成り上がり物語

そのうち大手歌い手兼トップユーチューバー兼プロゲーマーになります。

親ガチャハズレの俺達へ


このブログを見に来てくれてありがとう。
そして私は、まず君たちに謝罪をしなくてはいけない。
この記事のタイトルである「親ガチャ」という単語は見る方によっては不快な思いをするだろう。
私があえてこのタイトルにしたのは理由があるのだが、それを含めてもここで謝罪の意を伝えさせえて頂く。



さて、そもそも「親ガチャ」とはどういう意味だろうか。
知らない人のためにもここで私なりの解釈で説明しようと思う。
最近、いや、かなり前から主にスマートフォンで遊ぶことの出来るソシャゲというものが流行っている。
ソシャゲとは簡単に言えば基本プレイ無料のアプリゲームのことだ。
ゲームの中では大抵ガチャガチャが存在し、回して出てくるものはランク付けをされていることが多い。
例えば、滅多に出ない出現率3%のものはUR(ウルトラレア)10%のものはSR(スペシャルレア)
それ以外のいわゆるハズレはUC(アンコモン)C(コモン)などと呼ばれたりする。
この回しても何が出てくるか分からないというランダム要素にハマり、お目当てのキャラが出てくるまで数万円から数十万円という金を課金するものもいたりする。
そして、「親ガチャ」というものはこのガチャの頭文字に自分の親をあてはめたものだ。
まあ、説明するまでもないシンプルな造語である。



誰が最初に「親ガチャ」なるものを言い始めたのかは分からないが、初めて私が目にしたときは少なからず衝撃を受けた。
今まで私は、親という存在は親であり、当たりかハズレかなんてことは考えたことがなかった。
ランクを付けようなどとも思ったことはない。
最初に思いついた奴は相当性格がねじ曲がっているに違いない。
生まれながらにして、親は親。自分を生み、育ててくれた存在。その認識が今まで揺らぐことはなかったし、それが当たり前だと思っていた。


だが、あえて、今一度考えてみようではないか。
私の親ガチャは当たりだったのか、ハズレだったのか。
そもそも、なぜ私はガチャなるものを回されてこの世に排出されてしまったのか。
僕の尊敬するK氏の言葉を借りるならば「生んでくれ」などと頼んだつもりは毛頭ない。
「こんなことを考えても仕方がない。不毛だ。この親不孝者め。」と思う方もいるかもしれないが、
今宵は一度固定概念を捨て去って、0から私と共に思考の渦の中に飛び込んでみようではないか。



ではまず自分の親は当たりだったのかハズレだったのかを考える前に、
どういう親だと当たりでどういう親だとハズレなのかということを定義しなくてはならない。
ここからは完全に私自身の主観がかなり大きく影響してしまう。
お許しいただきたい。

私が思うに、当たりの親とは子供が何不自由なく生きていくためのサポートをすることが可能で、かつ、子供を育てるための環境作りが出来る親を指すのだと思う。

例えば、サポートという意味でいうのならば、それなりに裕福な暮らしができるくらいの金を稼げる能力が親には必要不可欠であろう。
子供の食事や、洋服、習い事これら全てには金がかかる。
一流のものを与えようと思えばただでさえ金がかかるうえにさらにかかる。
学校もそうだ。多くの一般家庭では公立の小学校、中学校、高校に通わせるが、もし、子供のためを思うのであれば私立の学校の方がいいに決まっている。
私立の学校というものは学費が公立の学校に比べてよりかかる。
しかし、その分手厚い教育を受けられたり、共に通う学友の質というものも高くなるだろう。
入学させるのに大金がかかる学校はそれだけ、受験のための敷居も高い。
野蛮で教養のない、誰かをいじめたりするような子供を育てている家庭はここで足切りを食らう。
そもそも受験していない。
十分な食事と多種多様な習い事に加え、高度な教育を受けさせ、共に学ぶ学友の質も高いとなれば
それは子供のためを思う親の手厚いサポートと言えるだろう。
もちろん、家庭内での子供へのコミュニケーションの取り方や教育方針がとても大事であることも
忘れてはいけない。



そして、環境という意味で言うのならば、子供がのびのびと健やかに成長していける環境を用意できるのが理想である。
治安の良い郊外に庭付きの一軒家があり、車があり、近所には親戚も住んでいる。
土地もそこそこ広いのを持っている。
家には専門の家政婦がおり、家庭教師も教科ごとに雇っている。
もちろん、夫婦の仲は円満で近所付き合いも良好。母親のおなかの中には弟もいる。
ここまで条件が揃っていれば文句の付け所はないだろう。
果たしてここまで恵まれた環境下で生まれてくる子供がいるのかは分からないが、もしも存在するのであれば親ガチャは文句なしのURであろう。



ここまでで、親の出来るサポートと環境作りの話をさせて頂いた。間違いなく親ガチャ当たりの。
私に言わせてもらえばこれぐらいしてくれないと生まれたくないものである。
生きるということは大変だ。辛く険しく、死んだ方がマシだと思う場面もたくさんある。
親にはこれぐらいのことをしてもらわないと、あまりにも子育てについて無責任だと言わざる負えない。
誰も「生んでくれ」などと、頼んでいない。
己の自己満足のために、世間一般的な常識とやらに縛れて、たやすく結婚と出産をしないで欲しい。
と、声を大にして言わせてもらう。
親ガチャハズレで大変な思いをするのは生まれてくる子供なのだから。



運よく、親ガチャで当たりを引いた子供は品行方正に育ち、趣味も多彩で、コミュニケーション能力も高く、友達も多いだろう。
運動神経も抜群で、勉強もよくでき、人には愛を持って優しく接することが出来るに違いない。
顔も両親に似て整っていて、身長も高いだろう。今後の人生で不自由することは何もない。
いい大学に入り、いい会社に就職して、いいお嫁さんを貰うであろう。
立派な両親のように自分もまた自分の子供に精一杯愛を注ぐことが出来る。



では、逆に親ガチャハズレの子供はどうだろうか。
生まれてきた環境もままならない。親は生活をすることに必死で子供に愛を注ぐ時間すらない。
サポートも特に何かできるわけではなく、両親、共が放任主義
カエルの子はカエル。鳶が鷹を生むことはない。
親が貧乏なら子も貧乏。親に教養がなければ子にも教養はない。
親は知らないのだ。何も。金の稼ぎ方も子供への教育の仕方も接し方さえも。
そんな親から生まれてきた不幸な子供こそが親ガチャハズレの子供だ。
なんとなく生まれてきてしまった哀れな生き物。

きっとこのブログを読んでいる君もそうだろう。
君の生活が、仕事が、学業が、恋愛が全てうまくいかないのは親のせいだ。
環境作りを怠ったまま、子育ての仕方も知らないまま君を生んでしまった親の責任だ。
君は何も悪くない。なるべくして、そうなっているのだ。
君の身長が低いのも太っているのも、禿げているのも、生活習慣が悪いのも、自律神経が乱れて昼夜どっちか分からないのも、コミュニケーション能力が低いのも、持病があって満足に生活できないのも全部!

親ガチャハズレの人間は親ガチャ当たりの人間の何倍も難しい人生という名のゲームをさせられる。
人生ハードモードだ。どれだけあがいても何も変えられないかもしれない。
人は平等ではない。
それでも、それも認めて生きていくしかない。



さて、少し熱くなってしまったが、ところで私の親ガチャは当たりだったのだろうか。
それともハズレだったのだろうか。
まあ、ハズレだろう。
親は離婚し、一家離散、私自身、持病のせいで二週間に一度、自己注射をしないと全身が火傷のような状態になる。今でこそ、医療が進歩してくれたおかげで高い注射を打つだけで私の症状は治まるが学生時代には人に肌を見せることが怖くてよく気が滅入ったものだった。
途中から不登校にもなった。
誰にも理解されずに辛い思いをしたが、母だけはよき理解者であった。それだけは救いであったのかもしれない。



ふむ、不幸自慢などし始めたらきりがないし、世の中には私なんかよりもよっぽど生きることに困っている人々もいるだろう。
親ガチャがハズレだったせいかそれ以外の理由があるのかは分からないが、
ただ、どれだけ辛くても苦しくても生きていかねばならない。
生きていくためにどうすればいいのか日々、考え、工夫していかねばならない。
今を生きる当人たちにとって親が当たりだったかハズレだったのかなんていうのは考えても仕方がない。
ハズレならハズレなりに、最大限自分の力を発揮して楽しんで生きた方がいいと思う。
一番最悪なのは「俺は親ガチャハズレだから何も出来ない」と思うことだ。
何もしないのはよくない。
過ちがあるなら、欠陥があるなら、それを認めて次への糧にしなくてはいけない。
前に向かって歩き出そう。この親ガチャハズレのsoomyaと共に、な。 完。